『国境の南、太陽の西』談義その2

ゆるりと「その2」です。

「ネタバレ」なるものをしたくはないのですが、わたしの言葉で語るよりもむしろ原文を引用したいという気持ちの方が強いため、未読の方はご注意下さい。

(このブログを見つけて下さる方なんてほぼいないだろう、とか思っていますが、ネットの海へ送り出す責任はありますので、念のため)

 

国境の南、太陽の西』の中にはお気に入りの箇所が多くあります。

今日はこちら。

 

 

 結局のところ何もかも演技に過ぎなかったのではないかと思うこともあった。僕らは自分たちに振り当てられた役柄をひとつひとつこなしてきただけのことではなかったのか。だからそこから大事な何かが失われてしまっても、技巧性だけでこれまでと同じように毎日を大過なく過ごしていくことができるのではないか。そういう風に考えると辛かった。

村上春樹国境の南、太陽の西』1995年(講談社)p.276

 

 

わたしが村上春樹作品の中に見出す魅力のひとつは、何とも言い表しがたいレベルでの高度な「共感」です(いやに抽象的な言い回し)。村上春樹作品を読み漁るようになった時期、わたしの心を最も震わせたのはこの「共感」という感情であり、世界の切り取り方の鮮やかさでした。そしてそれは、形を変えたとしても根本的には変わらずに、今もわたしの心を震わせ続けています。

 

「演技」、そして、「そういう風に考えると辛かった」と。

日々生きている中で何かが起きた時、作品の中の言葉がありありと甦ってくることがあります。

 

自分の中に言葉を蓄え、世界を蓄えておくこと。

多くの物事は変わる。でも、『国境の南、太陽の西』は変わらずにその世界を開いていてくれる。

 

自分の中に世界を蓄えておくこと。