わたしが抱えているものを

 

わたしが抱えているものを

誰も知らないし、誰も背負えない。

 

泣かないで、振り向かないで、まっすぐ前に進むことが

強いことならば、

わたしはもうずっと弱くて消えてしまいそうだ。

 

分かってほしくて

分かってほしくなくて

わたしの抱える地獄を

ひとりでもてあそんでいる。

 

他者の地獄を知ることもできなくて

誰かに優しくもなれなくて

綺麗事ばかりならべるこの日々の

どこに意味があるのだろう。

 

ただ空を眺めて生きていられたら。

 

 

ふと

ふとした瞬間に「あ、もうがんばれないや」と思う。

突然、涙が溢れてくる。

 

もう何年もずっと背伸びをしながら生きている。

目の前の高い壁を「越えられる越えられる」と自己暗示をかけて

暗闇でも吹雪でも目を瞑って進んできた。

 

日常は非情だ。記憶は無惨だ。

視界の端に見えた桜が、鼻の先をかすめた金木犀の香りが、

街の喧騒に紛れたあの旋律が

むごい感情を呼び起こし、心をズタズタにしていく。

 

これでいいのだろうか。

これでいいんだ、これが正解なんだ、恵まれた環境にいるんだ

そういう魔法が解けた時、わたしは暗い深い穴の底で

たったひとりなんだ。

 

長い夢

少なくともこの1年くらい、毎日がどうも自分の人生じゃないような感じがしています*1

自分の身に起こっているあらゆることが、まるでもっともっと遠くで起きていて、それをぼんやりと眺めているような感覚がするのです。

そう、長い夢を見ているような。

そして、ずっと、「長い夢だったらいいのに」と思ってきました。目が覚めたら、さまざまなことが今よりももっとましで、美しくて、色鮮やかで、わたしは心から笑えているんじゃないかと何となくそんなことを願っていたのです。

 

でも、

「(今のこの日々が)長い夢だったら悲しいよ」と言ってくれる人と出会いました。

それはとてもうれしく、同時にとても不思議なことでした。こんなどうしようもないわたしのいるこの世界に対して「夢じゃありませんように」と願ってくれる人がいるのです。それだけでわたしはとても強く護られ、確かに救われているのです。

しかしそれでも、

わたしはそれでもまだ、この毎日を自分の人生だと思えずにいます。なぜなのでしょうか。ずっとふわふわと浮かんでいるようなこの感じは、一体、なんなのでしょうか。

 

これは本当にわたしの人生なのでしょうか。本当のわたしはどこかでもう消えているのではないでしょうか。本当のわたしの人生を取り戻せる日は来るのでしょうか*2

 

夕暮れの窓の外を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えています。

 

*1:この言い回しは村上春樹国境の南、太陽の西』を意識したものですが、ハジメくんの抱いていた気持ちとは異なるものだろうということは分かっています。

*2:国境の南、太陽の西』で言えば、果たしてラストシーンのハジメくんは「これが自分の人生だ」と思えていたのでしょうか?

光なるものを求めて

いくつかのことに挑み、わたしは少しずつ、しかし確実に光のほうへと歩みを進めています。

いざ動き出してみると、思ったよりも物事が良い方向へと流れて行き、そのことに安堵している毎日です。これは非常に素敵なことであり、ありがたいことであり、尊いことであると思います。

この何年か、ずっと得ることのできなかった将来への期待のようなものであったり、この数か月、失い続けていた自分への希望のようなものであったり。

そういう素敵な形をしたあれこれがわたしの中に流れ込んでいること、あるいは、わたしの中から溢れ出していることを心からうれしく思います。

 

今日のわたしは、10年前、5年前、1年前、1か月前、1週間前にそれぞれぼんやりと思い描いていた未来のわたしのどれとも異なるものです。そしてこれからもきっとそういう日々が続いていくのでしょう。

ここはまだ暗闇なのだと思います。これから先もずっと暗闇のような気もしています。

それでも、光なるものを求めて歩んで行くことが生きるということなのかもしれません。

こういうことは、暗闇の中で一寸の光も見えないような日にはどうやっても考えられないことなのです。だから、わたしは少しずつ取り戻しているのだと思います。

 

光なるものを求めて、今日も、明日も。

「過去の悲しみ」

 

数か月前に「とあること」が起こり、それからそのことを受け止められない日々が続いていました。わたしは一体、何時間泣いたでしょうか、何リットルの涙を流したでしょうか。そのくらい悲しい出来事でした。

心の真ん中からずっと血が流れているような感覚とでも言えばよいでしょうか。そういう感覚がずっと続いていました。

 

頭では分かっているんです。こんな風に泣いているべきではないと。こんな風に考えていても仕方ないのだと。

でも、血を止める術を知らなかったんです。いや、正しくはまだ血を止めたくなかったんです。その「とあること」に関してもっと悲しみ、もっと苦しんでいるべきだと自分に対して思っていたんです。

 

けれど、そうやって自分を傷つけ続けるのがもうつらくて、血を止めようとすることにしました。

今はその途中です。

正直、かなり心は楽になりました。それで初めて、自分がどれほど深く傷ついていたのかに気づきました。

「とあること」によってもたらされていた悲しみが、「今の悲しみ」ではなく、「過去の悲しみ」になりつつあるのだと感じています。それは少し寂しいことでもありますが、確実にわたしを光のほうへと導いてくれているように思えます。

 

お久しぶりです

 

2年以上、更新せず、しかも非公開にしていました。

2020年当時、定期的にこのブログを見てくれていたかたがいるはずもないので、誰かに向けて「お久しぶりです」という必要もありませんが。ブログを書いている自分に向けて、ということにしておきましょう。

何となくまた書けることがあるかもしれないなーと思ったので、ゆるゆる再開してみようかと思います。更新していなかった理由も、非公開にしていた理由もいろいろありますが、そんなのは大した話じゃありません(まあ、そもそもこのブログに「大した話」はひとつもないです、たぶん)。

 

 

わたしじゃない何者かになりたくて眠りについても、結局、わたし以外の何者にもなれずに目を覚ます。そのことが最近(というか前からかもしれないが)やけにつらいです。起きた時に「今日もわたしだ、昨日の続きだ」と落胆する、そんな日々です。「ねてもさめても」。

 

さて、今のわたしに何が書けるのでしょうか。

 

紫陽花

 

f:id:yrnnzm:20200628124145j:plain

紫陽花

 

思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花

俵万智「元気でね」『サラダ記念日』

 

 

祖母の影響で、小さい頃から『サラダ記念日』をよく読んでいました。

最近、祖母と連絡を取った時に、今の季節に合うねと、この歌を送ってくれました。

 

素敵。

 

季節がめぐることを実感しますね。

季節のそばに好きな歌や好きな物語があることは、とても楽しいことだと感じます。

 

 

 深呼吸。