バンドデシネ版「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
立て込んでいて、久しぶりになってしまいました。
しばらく前に入手していたこちら。
個人的には村上春樹に限らず、映像化、漫画化の類はあまり見ないようにしているのですが、こちらは気になったので思い切って読んでみました。
(自分が思い描いていた世界が、視覚情報によって上塗りされてしまうような感覚があまり得意ではないのです…)
新しい世界観。なるほど、世界をこういう風に切り取ることができるのか、と新鮮な気持ちで頁をめくりました。
バンドデシネ版を読んだ上で、改めて短編を読み、自分の中で新たな世界を構築するのもおもしろいと思えました。良かった。
それと、もともとこの短編はすごく好きなのですが、収録されている『東京奇譚集』を改めて見返していて、なんと名作揃い…と。(今更)
この短編の内容に関することは、また別に書きたいと思います。ちょっとしたエピソードがあるので。
バンドデシネ版、他の巻も手に入れたいなと思いました。ぼちぼち。
『猫を棄てる―父親について語るとき』
読みました。
戦争の記憶と過去の継承は『ねじまき鳥クロニクル』を、
木に登った猫の話は『スプートニクの恋人』を、
路面電車の話は「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を、
それぞれ彷彿とさせる内容でした。
挿絵も素敵。
そういえば、ネット上で「タイトルが許せない」という旨の意見を目にしましたが、確かに強烈なタイトルではありますね。ただ、村上春樹のことを少しでも知っている身からすると、あの猫好きな村上さんが猫を棄てることなんてないんじゃないかな?と思って読み始めました。ネタバレになるのでこれ以上は書きませんが。
7月には短編集『一人称単数』が出版されるそうで。
楽しみが増えました~
(最近、村上春樹作品の話ばかりしているな)
「それが言えるような気がして」
今日はちょっと雰囲気を変えて。
高校生の時にとてもお世話になった先生から頂いた絵はがき。
確か大学受験の前くらいに頂いて、それからずっと大切にしているもの。
二番目に言いたいことしか人には言えない
一番言いたいことが言えないもどかしさに耐えられないから
絵を描くのかも知れない
うたをうたうのかも知れない
それが言えるような気がして
人が恋しいのかも知れない
星野富弘「むらさきつゆくさ」
この詩に何度となく救われたような気がする。
「一番言いたいこと」なんて誰にも言えない。
でも、それでもいいんだと思えたから。
実は、この絵はがきを下さった先生と昨年、高校卒業ぶりに再会しました。
それもお仕事関連の場で。
その先生は高校を退職されてから、新しい道を歩まれており、お仕事の場で再びつながることができたのです。
高校でその先生と出会っていなかったら、わたしは今の道に進んでいなかったのではないかと思います。
巡り合わせはいつだって不思議ですね。
言葉は時に人の心を壊滅的に傷つけるし、言葉と向き合うことは決して楽なことじゃない。
でも、言葉に救われることもちゃんとある。
だから今日も生きていける。
なんて。
「それが言えるような気がして人が恋しいのかも知れない」
『国境の南、太陽の西』談義その2
ゆるりと「その2」です。
「ネタバレ」なるものをしたくはないのですが、わたしの言葉で語るよりもむしろ原文を引用したいという気持ちの方が強いため、未読の方はご注意下さい。
(このブログを見つけて下さる方なんてほぼいないだろう、とか思っていますが、ネットの海へ送り出す責任はありますので、念のため)
『国境の南、太陽の西』の中にはお気に入りの箇所が多くあります。
今日はこちら。
結局のところ何もかも演技に過ぎなかったのではないかと思うこともあった。僕らは自分たちに振り当てられた役柄をひとつひとつこなしてきただけのことではなかったのか。だからそこから大事な何かが失われてしまっても、技巧性だけでこれまでと同じように毎日を大過なく過ごしていくことができるのではないか。そういう風に考えると辛かった。
わたしが村上春樹作品の中に見出す魅力のひとつは、何とも言い表しがたいレベルでの高度な「共感」です(いやに抽象的な言い回し)。村上春樹作品を読み漁るようになった時期、わたしの心を最も震わせたのはこの「共感」という感情であり、世界の切り取り方の鮮やかさでした。そしてそれは、形を変えたとしても根本的には変わらずに、今もわたしの心を震わせ続けています。
「演技」、そして、「そういう風に考えると辛かった」と。
日々生きている中で何かが起きた時、作品の中の言葉がありありと甦ってくることがあります。
自分の中に言葉を蓄え、世界を蓄えておくこと。
多くの物事は変わる。でも、『国境の南、太陽の西』は変わらずにその世界を開いていてくれる。
自分の中に世界を蓄えておくこと。